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988-992 許銘傑残留記念特別寄稿 by408

最初に東尾修投手(箕島高校ー西鉄・太平洋・クラウン・西武)の話から書く。
その方がシュートという球種の恐ろしさを読者の方々に理解いただけると思うからだ。

東尾修は1968年のドラフト1位で当時の西鉄ライオンズに投手として入団した。
しかし、東尾はここで一度投手を諦めようと思ったことがあると言う。
「キャンプ初日だったかな。ブルペンへ行くと凄い球を自分より凄い球を放る人ばかりなんです。
 隣で投げていたのは河原明さんだったと思うんですが、僕なんかよりはるかに球が速い。
 そんな人がプロで勝てないと言うんですから、これは来るところを間違えたと思いましたねぇ。」

だが、男の人生なんて1年先が分からない。
1969年のオフにあの「黒い霧事件」が起こり、池永正明投手をはじめとする主力投手が
西鉄からゴッソリいなくなってしまった。残ったのはプロ2年目の東尾である。

「こうなると、もう自分が投げるしかないんです。ですからいつでも投げられるように
 少ない投球数で打者を抑えるにはどうすれば良いのか。これだけを考えていました。」

来る日も来る日も投げ続けるうちに東尾は投球のコツのようなものを掴んだ。
「要するに打者の狙いを外すことだ。
 そのためには今までのスライダー中心の投球では通用しない。」
東尾が出した結論は、シュートとスライダーで相手を揺さぶることだった。
例えば右打者なら、まず内角にシュートを投げて打者の腰を引かせる。
そして外角にスライダーを投げて討ち取るという寸法である。
これが東尾のたどり着いた結論だった。

しかし、この投球には大きな代償が待っていた。
内角を厳しく突くということは、打者への死球が増えるということである。
東尾の内角を攻める投球は打者にしてみれば評判が悪かった。
「おい、東尾の投球はなんとかならないのか。
 アイツは打者を狙って投げているじゃないか。」というものである。
これは極端な例だが、1986年には死球を受けて激高したリチャード・デービス一塁手から
顔面を殴られている。

だが、東尾は打者の声に真っ向から反論する。
「打者に死球を与えれば、それだけで塁に出すことになります。
 わざわざ、相手にチャンスを与えるような真似をする必要がありますか。」
東尾はマウンドに上がった時は打者の内角を攻め続けて、
最終的には251勝を挙げたが、通算与死球記録165個というオマケがついた。

東尾の話が長くなった。
話題を許銘傑投手(中正高工ー台湾・台中金剛)に移そう。
許銘傑投手は2000年に西武に入団、
1年目から先発ローテーションに定着して28試合に登板、6勝を挙げた。
首脳陣にしてみれば勝ち星はともかく、防御率の4.57という数字が物足りない。

ある日、監督の東尾は許銘傑を呼び出した。
「なぁ、許よ。郭泰源から聞いたが、お前は台湾でシュートを投げていたそうじゃないか。
 それなのに、何故日本では投げないんだ。」
「台湾で投げていましたが、打者にぶつけてしまい怪我をさせてしまいました。
 それ以来、怖くなって投げるのを止めました。」
要するに、このやり取りからも分かるように、許銘傑は気が優しい。
気が優しすぎるから、勝負どころで球が甘くなるというのだ。

東尾は許の言葉を聞いてどう言ったのか。

「ふーん、なるほどなぁ。なぁ、許よ。昨年1年やってみて
 日本の打者のレベルの高さは分かっただろう。
 だけどな、日本の打者は打撃のレベルが高いだけじゃない。
 死球を避けるのも上手いんだぜ。お前のシュート避けられる打者は何人もいるぞ。
 思い切ってシュートを投げてみろよ。」

この言葉を聞いて許は吹っ切れた。もっと言えば開き直ったと言っても良い。
シュートを投げるようになった許銘傑は、翌年の2001年に11勝を挙げた。
これで西武が優勝できれば、東尾は名監督と言われただろう。
だが、男の人生なんて思ったことの十分の一も上手く行かない。
西武ライオンズは3位に低迷してしまい、東尾修は監督を辞任した。

巡り会わせの悪いことに、東尾が退任してから許銘傑の成績も少しづつだが落ちてきた。
2002年こそ9勝を挙げて西武のリーグ優勝に貢献できたが、
2003年は故障もあり4勝に終わる。

男の人生なんて3年先が分からないものだ。
入団1年目から6勝を挙げて、翌年には11勝したのに、
3年後には1年目の成績を下回る勝ち星しか残せない。

2004年からは伊東勤捕手の監督就任が発表された。
伊東勤は許銘傑が西武に入団して以来の正捕手である。
「黄金期を知っている伊東が監督なんだ。西武はこれから強くなるよ。」
ファンの期待は膨らむばかりだった。

ファンの期待が膨らむと同時に、許銘傑もやる気になっていた。
「伊東さんのためにとにかく頑張ろうと。それだけでした。」
だが、一度狂った歯車はなかなか戻らない。
27試合に登板したものの、ほとんどが短いイニングで先発は数えるほどしかない。
結局、この年も4勝に終わってしまった。

転機が訪れたのは、2006年である。
当時2軍の投手コーチだった石井丈裕コーチから
「スライダーとシュートを活かすためにサイドスローにしてみてはどうか。」と
声をかけられたのである。
「不安はありましたけど、このまま何もしないで終わるよりは良いだろうと。
 だから思い切ってサイドスローに取り組みました。」
だが、男の人生なんて思ったことの十分の一も上手く行かない。
結論から書けば、サイドスロー転向は失敗に終わってしまった。
現在は、フォームをオーバースローに戻している。
ところで、オーバースローに戻した今でも常にセットポジションから投げているのは、
サイドスロー時の名残なのだろうか。

2007年6月8日の中日戦(ナゴヤドーム)で、3番手として投げた許はそのまま打席に入った。
直前の1イニングを三人で抑えたのだから、次の回も投げさせようというのだ。
普通の投手なら、さっさと三振してベンチに引き上げ、次の回の投球に備える場面である。

だが、許銘傑は違った。
鈴木義広投手の150km近いストレートに必死にバットを振り続けたのである。
結局、10球以上ファールで粘り四球を選び、代走の片岡易之二塁手と交代した。

打席で必死にバットを振る許を見て私は胸が熱くなった。
「この男は、チームの連敗を止めるために必死なんだ。」
参考までに書いておくと、西武ライオンズはこの日まで6連敗していた。
許銘傑が必死で出塁したにもかかわらず、西武は勝てなかった。
最終的には、6月13日の阪神戦で勝つまで、10連敗してしまう。

一方、この日こそ三者凡退で抑えたものの、ファンの許銘傑に対する評価は厳しいものだった。
「いくらなんでも、もう通用しないよ。何でいつまでも伊東監督は許銘傑を使うの。」
許銘傑の2007年の成績は15試合に登板して0勝1敗、防御率は4.88だった。
これではクビだといわれても仕方のない成績である。
だが、男の人生なんて3ヶ月先どころか3日先が分からない。

2007年10月5日、伊東勤監督の辞任が発表されて、
後任に渡辺久信2軍監督(前橋工―西武―ヤクルト―台湾・年代勇士)の昇格が発表された。

渡辺は監督就任が決まると、真っ先に許銘傑の残留を決めたと言われている。
「2軍でも見ていましたが、まだまだ球も速いし、このままでは終わらないと思いますよ。」

2007年シーズン終了後、許銘傑は台湾代表として召集された。
まだまだ力が衰えていないという証拠である。
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邱俊雄

Author:邱俊雄
2ch@プロ野球版のスレ「許銘傑のオレが豊田さん!第2部」に連載中の36氏のコラムを中心に集めています。

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